「なあ、天野。明後日は何の日だか知っているか?」
訳知り顔の相沢さん。しかし私には意味がわかりません。
「いきなり何ですか相沢さん?」
「だから明後日は何の日かなーって」
相沢さんの口調といい、表情といい、何か隠しているのが判りきっているのだけれど。まあ、少しくらい付き合ってあげましょう。
今日は2月12日。明後日は……はあ、そういう事ですか。
ぴんっ。
あ、今何かが閃きました。
そうですね。普通にありきたりの答えを返したら面白くありません……と、相沢さんも言うでしょうし、ここはひとつ。
「……判りませんけど」
ちょっと意地悪をしてみることにしました。
「ナニィッ!? 知らないのかアマニィ!」
「何ですか、そのあまにぃとかいうのは?」
応える相沢さん。いかにも何かが色々と拙そうな叫びです。『何かが色々』を敢えて言葉で言うなら、常識とか、見識とか、威厳とか。
「天野のこと。なんだかミッシーと呼ぶのはありきたりな気がしたから、少し捻って苗字の方でやってみた」
「それでは私は帰ります。先輩さようなら」
「あ、ちょっと待て待て。悪かった。俺が悪かった。謝るからそんなに邪険に扱わないでくれ」
慌てて私を引き止める相沢さん。ここまで真剣に謝られると私としても悪い気はしません。だからいつもついつい彼を許してしまうんですね。大抵、後になって甘い顔をしたことを後悔することになるのですが。
「それで、何なのですか? 私も暇ではないのですけれど」
まあまあ落ち着け、と動作で私を抑える相沢さん。
一拍間を置いて、彼は自身満々に切り出した。
「明後日はバレンタイン・デーだな」
「そうですね」
「チョコレートが欲しい」
「……そうですか」
予想通りです。相沢さんも普通の男の子だったんですね。
相沢さんのことですから、もしかすると「チョコレートを贈りたいんだが、俺から、美汐に」とかそういう奇矯なことを言い出すかも知れないとも思ったんですけれど。
ん? 相沢さんから、私に? ちょこれーと?
相沢さんが私に愛を告白する……それは一体どういう状況なのか、全く想像がつきません。
「どうした天野? 俺を見つめて呆けたりして……まだそんな歳でもないだろう」
「相沢さんの言う事が、ありきたりで残念に思っていたところです」
これ見よがしに溜息を吐きながら、私は相沢さんに答えました。
「そうか? 男なら誰でも思う事だぞ」
いかにも当然といった風に相沢さんは言いましたが。私は釈然としません。
「それは、男性の方ならば誰でも私のチョコレートが欲しいという事ですか?」
「勿論そうだぞ」
「相沢さんも、ですか?」
微妙に顔をそむけて、しかしながら目は相沢さんから離さず。これがポイントだと栞さんは力説していました。為しうるならば、赤面もせよと。
「相沢さんも、私のチョコレートが欲しいのですか?」
「え? あ、ああ」
いつもと雰囲気が違うのを感じ取ったのでしょうか。相沢さんが怪訝そうな表情で答えました。
「……そうですか」
相沢さんの返答を聴いた私は、小さく嘆息して、視線を相沢さんからそむけて。
「道理で最近、私を見る相沢さんの目が物欲しげだった訳です」
私の演技力で出来る限り、興味が無さそうに淡々と続けました。
「あま……っ」
相沢さんは言葉に詰まりました。私の勝ちですね。
私が小さな達成感に浸っていたときです。
背後から小さな声が聞こえました。
「キツい事言うなあ……」
「天野って結構酷いやつだったんだな」
クラスメートの男子達が、今の私たちを見て…………って、今は教室の中じゃないですかっ!?
きっと今のは誤解されています! 違います。あれは本意ではないのです! いつも私をからかって喜ぶ相沢さんに虚実を交えて仕返しを……って、全然言い訳になっていません!!
おろおろと周りを覗うばかりの私は、相沢さんの表情が微妙に笑っているのを、見たのです。
一瞬で表情を硬く引き締めた相沢さんは――
「天野……いや、美汐っ!」
――いきなり叫び出しました。
「そのとおりだ。俺はお前のチョコレートが誰の物よりも欲しいッ!! 例え美汐が他の誰かを想っていたとしても……」
これが相沢さんのいつもの手だと心の片隅でちらりと浮かびましたが、相沢さんはそんな私に頓着せず荒々しく肩を掴んで一気に引き寄せました。相沢さんの顔が一気に近付いてきます。いいえ、近付いたのは私の方。見慣れた筈の相沢さんの顔、真面目な表情をこんなに近くで見るのなんて、初めてです。
「俺は、美汐の心を奪い取ってでもモノにする。絶対にだ。他の誰にも渡しはしない」
……私の目の前5センチには相沢さんの顔が、恰も私に噛み付くような形相で……そんな、これではまるで……。
まるで熾き火に炙られるような、灼け付くような感覚が思考能力を麻痺させます……。
「あ、あいざわさん……」
拍手が聞こえてきました。
再び周囲に視線を走らせる私の視界に、暖かな笑顔を浮かべて私たちを見ているのが入ってきました。
「相沢先輩は本物の漢ぜ」
「いいなぁ……。あんなふうに告白されてみたーい」
皆して祝福モードですかっ!?
「美汐。恋という狂気には何者も打ち勝てないんだ。俺たちも、いざ愛の海へと漕ぎ出そう」
相沢さんは名調子を緩めもしません。それどころか益々調子付いているような気がします。
皆さん、判って下さい。これは相沢さんの演技なんですっ!!
「天野、幸せになってくれよっ!」
嗚呼、勘違いした男子生徒がなぜか涙ぐみながら教室から走り去って行きました。
「あ、相沢さん……。判りました、私の負けです! ですからこんな場所でそのような冗談は」
事態の収拾を図るべく負けを認めて相沢さんに懇願しましたが、相沢さんは
「冗談? 冗談なものか! 俺は、お前が欲しい、美汐、俺のモノになってくれ!!」
更に感情っぽい何物かがこもった冗談を、私に熱っぽく語りかけました。全然私の言葉を聞いてくれていません。
私達を見て周りがどよめいているのが聞こえます。
「ば、場所を変えましょうっ!」
私は相沢さんの手を引っ張って、教室から逃げ出す事しか出来ませんでした。
「一体何を考えているんですか!」
今までのいきさつから感情が昂ぶって、思わずきつめの物言いになってしまいますがそんな事に頓着していられません。
中庭に相沢さんを引っ張り出した私は、彼を叱責しています。
「あんな、クラスメートの眼の前で……誤解されるような事を叫んで」
そうです。
考えたくもありませんが、あの場に居たクラスメートは
天野美汐 = 言い寄って来た男を冷たく振る冷血娘
相沢祐一 = 冷たくあしらわれても情熱的に迫る健気男
という目で私たちを見ていました。きっと誤解は解けていません。
「全く、明日から私はどの顔を下げて登校したら良いのですか……」
はぁ、思い出しただけで、涙が出そうです。
「仕方無かったんだ……」
それまでへらへらと笑っていた相沢さんでしたが、私の気持ちが伝わったのか、しゅんとなった青菜のように気落ちした様子でぽつりと言いました。
「実はな、北川と賭けをしたんだ。簡潔に言うと、貰ったバレンタイン・チョコの数の多さで勝負するんだ。
賭けを受けてから知ったんだが、北川も普段はああだが裏では結構人気があるらしくてな。転校して間も無い俺じゃあ勝負になりそうにないんだ。知り合いも少ないし。
負けた方は勝った方に昼飯を奢らなきゃいけないからな。
そこで天野に営業活動をしようと思った訳だ」
小さく、私の肩が震えたのが判りました。
「そんな馬鹿な事のために……私はあんなに恥ずかしい思いをさせたんですか」
私は相沢さんの昼食の材料の為に、あんな恥をかかされたのですか。その上、営業活動ですか。
彼の相変わらすの様子に、もう呆れて良いやら怒って良いやら悲しんで良いやら。
「済まない。誤解は明日解くから安心してくれ。
それで、な。チョコのことなんだけど」
「私にあんなに恥ずかしい思いをさせておいて、まだチョコレートを欲しがりますか?」
「悪かったって。誤解は明日解くようにするし、天野にも謝るよ。ごめん、悪かった」
ぺこり。相沢さんが私に頭を下げます。悪いと思ったらすぐに謝って改めてくれるのが彼の良いところですね。
「考えてみたら私も大人げありませんでしたね。おあいこ、ですよ」
私もお辞儀を返します。顔を上げたとき、相沢さんが邪気の無い顔で微笑んでいました。
「とまあ、綺麗に纏ったところでな」
「はい?」
厭ににこにこ顔の相沢さんが、爽やかに切り出しました。
「チョコレートをくれないか」
……これしか言う事は無いのですか。
相沢さんも、もう少し周りと相手の心情を見てくれたなら、MMK(モテテ・モテテ・コマッタ)君になれるんでしょうけどね。相沢さんのために溜息を禁じ得ません。
「私は真宗門徒です。チョコレートを使って愛を求める儀式に興味はありませんよ?」
「いや、別に愛を求めなくても……」
何だか納得が行かないご様子ですね。こういうことは気持ちが大事なんですよ。
「天野的に興味がなくてもいいから、チョコくれーくれー」
「……相沢さんには負けました」
力を抜いて、降参の意思表示を。何だか良いように操られている気がします。
1999年2月13日土曜日、時刻は朝8時25分を過ぎてしまいました。
今、はっきりと言って私は焦れています。周囲から突き刺さる好奇の視線が痛くて仕方がありません。
もう何度目になるでしょうか。腕時計に目を向け、窓の外を見遣ります。
朝の校門、徐々に少なくなる生徒たち。
「……来ないわね、相沢くん」
居た堪れない様子の私を気遣って下さるのでしょうか、美坂先輩がそう声をかけて下さいました。
解りやすく言えば、私は遅刻の危機に直面しているのです。
実は相沢さんに会いに来ているのですが、朝のSHR前という時間がいけなかったのでしょうか、未だ相沢さんの姿がありません。せっかく、恥ずかしいのを堪えて2年生の教室まで来たというのに。
時計の長針を睨みます。27分。予鈴は既に鳴り終わっています。
こうなることは容易く予想できたとはいえ、こんな日にまでこうもベタベタな展開を見せなくったって良いじゃないですか。
もう自分の教室まで戻ろう、そう思った時、教室後ろの扉が勢い良く(というよりは無意味に力強く)開け放たれて相沢さんと水瀬先輩が走り込んできました。
「よう、天野! おはよう」
「相沢さんっ!」
私を見つけた脳天気な相沢さんの挨拶に、意図せず不機嫌な声になってしまいます。
クラスメート達に誤解されている状況で下手に教室に乗り込んで来られるよりはましだと思っていたのですが、どうやら思い違いだったようです。
「朝っぱらからどうした?」
ああっ、もう時間がありません。私は右手に持ったままだった小さな巾着袋を、そのまま相沢さんに突きつけました。
「これっ! 相沢さんに差し上げます。受け取って下さいますね?」
相沢さんが頷いたことだけを視界に収めて巾着を相沢さんの手に押し付け、私はダッシュで自分の教室へと向かいました。
1階から3階へ駆け登る作業を苦労して終え(この間に本鈴が鳴ってしまいました)、教室の扉を開けたところに待っていたのは――
「天野か。遅れるなんて珍しいな?」
――生徒の名前を順に呼んで出欠を調べている先生の姿でした。
ああ……何という不覚。天野美汐、出席番号2番、出欠欄には既に斜線が引かれていることでしょう。
呆然としてしまいます。こんな事のために1年目にして皆勤賞を逃す羽目になるなんて。
「先生っ! 天野さんは愛する先輩の教室にチョコレートを届けに行く為に遅くなったんです。遅刻にはしないであげて下さい」
「は?」
突然起立して、先生にある事無い事を元気良く申告して私を弁護してくれたあまり馴染の無い女生徒の言葉に、疑問の声を上げてしまいました。先生ではなく、むしろ私が。それに対して、その女生徒は
『全部解ってるから任せて』
という表情で片目を瞑ります。いいえ、あなたは全然解っていません。
「あ、もうそんな時期か。そういう事情じゃあ、まあ仕方ないな。今後は気を付けろよ」
先生も何だか理解ある態度で仰いますが、私の現状を理解しての言動では決してありません。
「え? あの、ちょ、ちょこれーとなんて渡していません……」
先生の注意に対して思わず応えてしまった私……、やってしまいました。先生が怪訝な顔をします。
「それじゃあ、天野、お前一体どうして遅れたんだ?」
先生の問いに対して私が答えられる筈も無く……結局出席簿の私の欄には訂正で丸が書き入れられ、『理解ある教師』として株を上げた先生がSHRの終了を宣言して去っていったのです。
呆然とする私にさっきの女生徒が近付いて来るのが見えましたが、私は到底相手が出来る状態ではありませんでした、思考が完全に停まっていて。
「天野さんったらっ!」
首から上がすとんと落ちる感触で私は気が付きました。
少し呆れた声が降ってきます。何だろうと思って見上げると、そこには同級生の女の子が立っていました。ちなみに、今朝に要らないフォローを入れてくれた人です。
「……天野さんでも、居眠りすることがあるんだね」
彼女の言葉で、徐々に思い出してきました。
たしか4時間目の世界史の授業中に私は居眠りをしてしまったのです。授業中に退屈した私はどうやら頬杖をついて舟を漕いでいた、ようです。何たる失態。
手鏡を取り出して、身だしなみをチェックします。はい、合格です。
「もう放課後だよー。愛する先輩の所に行かなくていいの?」
私の傍らに立った女の子はまだ誤解したままです。
「愛してませんし、行きません」
少し、棘のある言葉だったかも知れません。仕方ないじゃないですか、昨日から口を酸っぱくしてそうじゃないと言っているのに聞いて貰えないのですから。
そういえば、相沢さんが今日みなの誤解を解いてくれる約束なんですけど、もう放課後です。今日は諦めます。野暮用もある事ですし。
広げっぱなしのノートを閉じて机の上にまとめて、机の横のフックに掛かっていた鞄を取り上げ、手早く世界史の道具を収めます。半ドンだけに、鞄も軽いですね。
「えぇ〜 ツマンナイ」
「つまんなくて結構です」
頬を膨らませて不満を表明するのに短く答えて、私は席を立ちます。
その時、教室の扉が開く音がしました。
「ぼんじゅー、もん・まだむ」
そして、気の抜ける声も。相沢さんでした。どうしてあの人は、こんな奇矯な登場の仕方ばかりなのでしょう?
「あ。そういう訳だったんだね、天野さん!」
女の子が厭に嬉しそうに一人合点しています。どういう訳ですか。
彼女の目が光ったように感じたのは、きっと気のせいではないでしょう。
放課後、帰り道。
空はあんなに明るいのに、私の心だけ曇り空のままです。
「いい加減に機嫌を直してくれ」
「……もういい加減に諦めました。相沢さんはああいう人ですから」
とぼとぼと歩く歩道、私はこれ見よがしに肩を落として相沢さんよりも心持ち歩調を落とします。
教室に現われた相沢さん。約束どおりに誤解を解きに来て下さったのですが。その方法たるや……。
何が『天野はまだフリーだぞ。アタックは今の内、先着3名様までだ』、ですか。はぅ。
犬に噛まれたと思って、もう、忘れましょう。覆水は盆に帰らぬものと言いますし。
「それで……」
「何だ?」
「賭けはどうなったんですか?」
無理矢理に気分を切り替えるため、私は話題を変えました。というより、これが本来話したかった事です。
「気になるか?」
「当たり前です。こんな思いまでさせられたんですから。当然勝ったんでしょうね?」
疑問、ではなく確認――険のある発音になるのは仕方がありません。
「ああ、負けだった。4対5だった」
私の声の調子を気にするでもなく、さらりと相沢さんは答えてくれました。
「接戦だったようですね」
「接戦でも負けは負けだからな」
「そう……ですか」
気付かれない程度に、私は顔をうつむかせました。この様子では未だ私の渡したものは開けて貰えていないようです。私の言いたいことにも気付いていないに違いありません。
……どうしましょう。言ってしまうべきでしょうか、それともこのままにしておくべき?
数十歩ほど迷った末に
「相沢さん、話があります」
私は相沢さんの袖を引いて彼を留め、そして横の児童公園を指差しました。
土曜日の昼という時間だからか、公園にはあまり人気がありませんでした。
隅の目立ちにくいベンチに相沢さんを誘い、腰掛けます。
「まず、朝に差し上げたものを返して頂けますか」
私は、これが恐らく常識的というものの範疇から大きく外れているだろうとは思いながら、努めて何事も無いように言いました。
「は?」
当然、なのでしょう。相沢さんは『何を言われたのか解らない』と正直に表情に貼り付けながら、疑問の声を上げました。
「朝に差し上げたのは、チョコレートではありません」
「何だって?」
「中には紙が1枚入っているだけです。それについて今からお話します。
……相沢さんにも言いたい事はあるでしょうけど、私の話を先に聞いて下さいますか」
きょとんとした、とでもいうような表情で相沢さんが頷きました。
噛んで含めるように、私は自分の気持ちを整理して言葉に直そうとします。
「相沢さん。昨日はチョコレートを差し上げることを承諾しました。ですが、私は賭けのお話を聞いたときから、あなたにチョコレートを差し上げるつもりはありませんでした。
当然でしょう? 女の子の心づくしのチョコレートを賭けの対象にするなんて、不謹慎にも程があります。誰が好きこのんで嫌いな人にチョコレートをあげるものですか。義理といえ、本命といえ、少なからず女の子の気持ちがこもっているものですよ。
それを、何ですか。
貰えたチョコレートの数を競うだなんて。あまつさえ、賭けに勝つために営業活動ですか。
そんな事を言われたら、一体どういう気分になるか判りますか? 相沢さんはチョコレートをくれる人の気持ちを考えたことがあるのですか?
私はともかく、他にチョコレートをプレゼントされた3人の方に、せめて謝罪くらいはするべきです」
一旦話を切って、相沢さんの様子を窺いました。言い過ぎかもしれません。
彼は驚いた様子で、しかし何も言わずに聞いてくれています。
その様子に少し安心して、私は話を継ぎます。
「お願いです。少しだけ考えてみてください。難しい事じゃありません。
相沢さんが好きな人にプレゼントをあげるとします。恋しい人かも知れませんし、普段お世話になっている人かも知れません。その人が喜ぶのを考えながら、プレゼントも用意しました。
なのにプレゼントを受け取ったその人が、相沢さんのプレゼントの良否をその場で評価するような事があればどうですか? 他の人にプレゼントを見せて
『今年は少ないね』
などと言い合っている姿を見かけたら、どう思いますか?」
相沢さんは険しい、だけど怒りじゃなくて悩んでいる表情になりました。これは真剣に物を考えているときの表情。どうやら、素直に聞いてくださっているようです。
「ですから、私はわざとチョコレートではなくこの事を書いた紙を箱に入れて相沢さんに渡しました。相沢さんのご様子ですと、まだ開けて貰えていないようですね。
ですから差し出がましい真似だとは思いますが、こうしてお話を聞いていただいたんです。
相沢さん、私は何か間違ったことを言ってますか? 何か思い違いをしていますか?」
これで、私は言いたいことを言いました。彼の反応をじっと待ちます。
「いや、間違ってない……と、思う」
長い間が開いて、ようやく出てきた言葉は戸惑うような苦い響きでした。
「それでは、相沢さんがやっていたことは恥じるべき事だということも解りましたね」
「ああ」
「相沢さんにチョコレートをくださった方には……」
「解ってる。帰ったら謝る」
きっと、相沢さんは根が素直なんでしょう。すんなりと解って頂けたようです。
息を吐いて緊張を解きました。
そして通学鞄の中から改めて、綺麗なラッピングを施された箱を取り出します。
「それでは、相沢さん。これをどうぞ」
相沢さんは呆けた表情です。それが少し可笑しくて笑ってしまいました。
「なんだ……天野、チョコレートをくれないって話じゃなかったっけか?」
「相沢さん。『善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや――』」
私は桃色のメッセージカードが相沢さんに正対するように箱を捧げ持って、できるだけの笑顔で
「『――悪人をや』、ですよ」
赤い包みを差し出しました。
(蛇足)
「悪人って俺のことか?」
「そうですよ」
「今回は確かに悪かったと思うけど……あそこまにこやかに言われると、多少は堪える」
「相沢さん。『悪人』というのは道徳的な意味の悪とは少し違います。
人は誰しも根源的に悪なのです。『悪人』とは己が悪である事を悟った人のことで、『善人』とはそれを悟れない人のことです。己自身が悪である事を自覚するところから、反省や懺悔は始まるのです。
ですから、悪人と言われることは、決して悪いことではありません」
「へぇ……」
「それよりも相沢さん、どうしたんですか今日は? 厭に大人しいじゃないですか」
「今日の天野……さ」
「はい」
「なんだか坊さん、みたいだよな」
「ほ、放って置いてください!」
(もう、終われ)
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